鹿沼市の城館
名称(別名) | 概要 | 備考 |
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八方館 | 天正13年(1585)八ほう山で合戦があったとの史料があり、宇都宮・佐竹氏連合軍が攻めた事から壬生氏関連、板垣将監の砦説、桜本院順海坊昌安の砦説がある。 小倉城の砦? |
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堀之内 −板荷− |
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大久保城 | 室町時代に小曽根大学頭が大久保に城を築いたとの伝えがある | |
大芦城 (金ヶ沢城) |
室町時代に構築された久我城詰の城 郭を囲む堀は浅くなっちゃってますが、各尾根の堀切はかなりしっかり残ってます。 |
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容愛城 | 石川憲氏が足利持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて日光二荒山に逃げる途中ここに城を築いたとの伝えあり | |
久我城 (久我式部城) |
久我式部大輔常真築城とも佐野基綱築城とも云われる。 | |
新井城 | 永正年間(1504〜1521)毛野塚内匠左衛門の築城。 孫の大膳大夫が佐野氏に仕え、阿蘇郡閑馬村の神馬城に移り廃城と伝わる。 場所は確定されてません。 |
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高村氏館 (堀ノ内) |
高村氏の館跡 | |
龍階城 | - | |
堀ノ内 −酒野谷− |
大門氏の居館? | |
高谷殿 | 室町時代、宇都宮氏家臣高谷隼人が築城したと伝わる 二代目から松崎姓を名乗り、十三代のときに帰農、現在も城域に子孫の方が住んでいます。 |
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府所城 (府郡城) |
天正4年(1576)3月、宇都宮国綱家臣飯田惣左衛門の築城、天正18年(1590)7月結城中務大輔晴朝が攻め落としたと伝わる 宅地化され、遺構は壊滅 |
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千渡城 (上城) |
天正年間(1573〜1591)に宇都宮氏家臣、宇賀神新八郎(宇賀地左京助)の築いた城と伝わる。 現在は宝性寺が建っていて、遺構も土塁・堀がきれいに残ってます。 |
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堀の内 −栃窪− (栃窪城?) |
鹿沼市史前所収の渡辺氏系図に「重則 野州栃久保城主」とあり、また同書の寺院の項に編遍照寺(栃窪山等持院)の開基を栃窪城主竹沢讃岐守とある。 堀の内=栃窪城かどうかは不明 |
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千手山 | 鹿沼城の出城? | |
鹿沼城 (御殿山城) (坂田城) (亀城) |
鹿沼権三郎入道教阿が正応の頃(13世紀後半)坂田山に館を構えたと伝わり、その後麓(現在の地)に移転する 後宇都宮氏に敗れ、壬生氏の城となる。 |
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右近殿台 | 壬生氏老臣の居城と伝わるが、鹿沼氏の古城とも思われる。 | |
加園城 (竜が谷城) |
天文20年(1551)渡辺右衛門尉綱重が築城したと伝えられる。 渡辺氏は代々宇都宮氏の重臣だったと言われるが、壬生氏や皆川氏の家臣になったりもしたらしい。 遺構の残存状態は南の一部以外良好 |
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独鈷山城 | 加園城と連携した城 採石の為消滅 |
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日向城 | 築城年代は不明、鹿沼城主壬生綱房の祖父、横手一伯の居城であったらしい。 遺構はきれいさっぱり残ってません |
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上南摩城(上) (龍蓋山城) |
下の御城と共に、応永年間(1394〜1411)に久我七郎兵衛盛綱の長子南摩備前守郷綱が築城したと伝えられる。 後北条に属し天正18年(1590)廃城とも、宇都宮氏に属し慶長3年(1598)廃城とも伝えられはっきりしないらしい。 遺構へたどり着く道はありません。造りは下の御城に近い造りです。 |
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上南摩城(下) | 上の御城と共に、応永年間(1394〜1411)に久我七郎兵衛盛綱の長子南摩備前守郷綱が築城したと伝えられる。 本丸の一部は採石の為破壊されているが、良好に残ってます。 ※見学の際は、城跡西麓の大貫氏に必ず許可をとってください。 |
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ホンノウチ | - | |
下沢城 | ホンノウチの詰城? | |
村井城 | 壬生綱重の三男、大門資長の築城と伝えられる。 その子資忠の時、天正18年(1590)壬生氏滅亡と共に廃城 八幡太郎義家が奥州遠征の際鎌倉権五郎を従え、一夜で築いたとか、文亀年間(1501〜1504)に鹿沼城主が修理して盾ノ内と称した、などの伝承もある。 |
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荒屋敷 栄林寺 |
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石川城 | 石川氏の城館 現在も城域に、子孫の方が住んでいます。遺構も堀と土塁が部分的にだが結構きれいに残っています。 |
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短草館 | - | |
茂呂城 (師城) (下茂呂城) |
元亀年間(1570〜2)頃に壬生氏に対する抑えとして、宇都宮氏家臣市田備中守が築城との説と、鎌倉前期に築かれ戦国期に城として整えられたとの説がある。 | |
深津城 (中城) (深栖城) |
宇都宮氏家臣、小林豊後守が築いた城 鎌倉時代以前に深栖氏が館を構えたとの説もある 慶長2年(1597)宇都宮氏改易と共に廃城。 延命寺一帯に空堀、水堀が残っています。 |
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久根ノ内 | - | |
百間堀 | 多田本庄斎の城? | |
堀之内 −藤江町− |
多田本庄斎の城? | |
盾の堀 | 一品親王烏丸大納言広済の館跡 遺構は壊滅 |
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下南摩城 (滝尾山城) |
皆川氏家臣高木讃岐規衡がこの地に居住。 佐野氏家臣赤見内蔵介広孝が高木讃岐規衡の要請により入城、南摩氏を称す、その後天正4年(1576)秀村の時城が完成するが、壬生上総介義雄に攻められ、壬生氏家臣一色右衛門が入城し壬生氏の滅亡と共に廃城。 遺構の残存状態は良好です。 |
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竹ノ内 | 下南摩城の麓 | |
磯前田館 | - | |
山形刑部館 | 那須記に宇都宮氏に仕える者として出てくる、山形刑部掾の館? 又はその子孫の館跡? |
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茶臼山城 (磯城) |
天正9(1582)年頃、鈴木主水正藤原行圀が築き、山形刑部に後を譲ったと伝えられる。(上記山形刑部館との説もあり) | |
粕尾城 | 治承年間(1177〜80)足利忠綱築城との伝承があるが、 弘和元年(1381)前後に小山義政が築城したものと思われるらしい。 秀郷流の嫡流とも言われる名門小山氏の終焉の地。 堀等がわりときれいに残っています。 |
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大塚城 (大越路城) |
室町時代末期、大塚信濃守綱利が築城。 遺構の残存状態は良好です。 |
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粟野城 (涛早城) |
治承年間(1177〜80)足利忠綱築城との伝承があり、暦応元年(1338)平野将監範久修築とも伝わる。 現在は公園になっています。城の造りも面白いので必見です。 |
市指定遺跡 |
諏訪山城 | 室町時代末期、平野大膳が築城したと伝わる。 平野大膳は、永正12年(1515)皆川氏に属し、天正13年(1585)と天正16年(1586)に宇都宮氏に攻められた。 |
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竜貝城 (龍ヶ谷城) |
文明年間(1469〜86)長島某が築城し、永正・大永年間(1504〜27)の頃、毛野塚大膳太夫、天文15年(1546)より天正(1590)の頃まで伊藤右馬之助・植竹備後・高瀬某・大久保某が居城したと伝わる。 島津政忠軍忠状(永徳2年)の長野城はこのお城の事と思われるらしい。 |
report:minaka 参考資料
作成日:2003/09/15 最終改訂日:2009/09/30