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大田原市の城館

名称(別名) 概要 備考
久保館
(城山)
永徳元年(1381)久保資親が築く、子資治が継ぎ応永24年(1417)まで住すと伝わる。 -
藤形輪館
(羽田城)
応永年間(1394〜1428)那須資氏の子、信濃守資持が分地され築き羽田氏を称した。 -
鎌足城
(藤ヶ館)
藤原鎌足の築城との伝えがあるらしいが、藤形輪館の付け城説が有力。 -
木須館 天文20年(1551)滝寺に亡んだ那須支族木須氏の遺子康実が、羽田氏を頼り再興して築城。大関氏に仕え、寛永頃黒羽に移るまで居城した。 -
柿木内館
(堀之内)
(羽田城)
貞和年間(1345〜52)羽田氏が築いたとの説と、羽田氏後期の拠点とする説がある。 -
小滝館
(小滝城)
応安3年(1370)頃、那須資藤の五男小滝五郎資信が築いた。
慶長頃、福原氏に仕えるまで小滝氏が住した。
市指定遺跡
荒井館
(堀之内)
明応年間(1492〜1501)以前に荒井志摩守が築いたと伝わる。 -
水口館 明応3年頃、大田原8代康清が築く。
天文12年(1543)大田原城に移るまで拠点となった。
市指定遺跡
大田原城
(竜体城)
(前室城)
(前室蛇頭城)
天文12年(1543)あるいは14年(1545)に那須家重臣、大田原資清家が築き水口から移ったと伝わる。
幕末まで存続し、公園化されていて遺構も結構残ってます
市指定遺跡
根小屋館 正平年間(1346〜70)那須資藤次男金丸肥前守資国が分地され築いたと言われる。応永年間(1394〜1428)亀山に移り住み廃した。 -
竜花館
(龍華城)
年代不明、金丸玄蕃頭が築いたと伝わる -
荻野目館 元中年間(1384〜92)那須氏支族玄蕃信隆が築く。
子孫は荻野目氏を称し慶長(1596)の頃廃された。
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佐久山城
(御殿山)
文治3年(1187)那須資隆次男泰隆の築城し佐久山氏を称する。
永禄6年(1563)同族の福原資孝に攻められ滅亡。
元禄15年(1702)福原氏が入城し明治維新まで続いた。
御殿山公園となっていて、きれいに整備されてます。
市指定遺跡
御古屋敷館 天正18年(1590)に福原資保が築き、元禄15年(1702)に佐久山に移るまで拠点となった。 -
福原館
(北岡城)
(北岡居館)
(福原城)
那須資隆の四男、福原四郎久隆の築城と伝わる。
その後弟の五郎之隆(那須資之)が那須氏を継ぎ、那須氏の拠点となる。
応永21年(1414)頃、那須氏が上下に分かれた際上那須氏の拠点となり、永正13年(1516)上那須氏滅亡まで続いた。
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福原陣屋 再興那須家の初代資景が築いたとも資徳が築いたとも伝わる。 -
福原城
(要害城)
(竜臥城)
慶長の頃、再興那須家初代資景が築いたと伝わる。 -
中根館 - -
片府田館
(片府田城)
鎌倉時代に那須資隆四男、福原四郎久隆が築城。
以後代々福原氏の拠点となった。
天正年間佐久山古屋敷館に移り廃城。
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鷹ノ巣館
(鷹ノ巣城)
大全豊後守の館と伝わる。 -
佐良土館 佐良土氏築館と思われる。
天正18年(1590)改易になった那須資晴が隠居し築き、この地で没したと伝わる。
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田中要害
(ゆうげい)
室町時代後期、伊王野氏家臣田中氏が築き、江戸時代初期に廃す。 -
矢組館
(城内)
(矢組五郎館)
室町中期以前に構築されたと思われ、矢組五郎の居館と伝わる。 -
大塚要害
(堀之内)
天正末頃、小山氏の末裔矢野氏が大関氏を頼り逃れて来て築いた。 -
川田館
(堀之内)
鎌倉時代、川田六郎資成が構築し、以降近世まで居住したと思われる。 -
青木要害 室町末期頃、青木氏が築いたと思われる。 -
高館城 文治年間(1185〜90)那須資隆が築城、一時那須氏の本拠となり梶原氏指揮の鎌倉軍に落城したとの伝説がある。
実際は川田氏の詰の城と考えられる。
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佐久山館要害 大輪氏の居城と思われる。 -
桜田要害 - -
大久保館 大久保氏の居館 -
羽黒山要害 大久保氏の詰の城と思われる。 -
奥沢館
(枡取)
八幡館を拠点にしていた那須氏重臣角田太郎衛門が、天正年間(1573〜1592)大関氏の黒羽進出に際し奥沢に住し築いたといわれる。 -
岩谷要害
(要害)
三浦之介の居館と伝わる。
八幡館と共に、三浦氏の末裔と言われる角田氏の拠点と思われる。
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白旗城
(白旗山)
(本城山)
応永年間(1394〜1429)に大関氏が片田の山田館から移り築城。(大関増清の時と思われる)
天正4年(1576)黒羽城に移るまでの約170年間大関氏の拠点となった。
市指定史跡
八幡館 那須氏重臣、角田氏の居館。
天正年間(1573〜1592)大関氏の黒羽進出に際し奥沢に移住し、八幡館は黒羽城の一部となった。
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構え場館 伊王野氏が構築、天正頃大関氏の領地となり廃館。 -
田沢要害
(ゆうげえ)
(りゅうがい)
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築地館
(大館)
(大築地)
(枡形)
平安後期に那須氏の祖、須藤権守貞信が築き、未完成の内に神田城に移ったとも、その子孫資隆の構築ともいわれる。 -
黒羽城
(黒埴城)
(鶴舞城)
(九鶴城)
(御殿山)
天正4年(1576)大関高増築城。
近世以降の大関氏の拠点となり明治維新まで存続。
遺構はかなり広域に残っていて、なかなか見応えがあります。
「芭蕉の館」と言う資料館にちょっとだけ大関氏の資料もあります。
市指定史跡
弾正館
(弾正城)
伊王野氏の支族、伊王野弾正が築いた出城と伝わる。 -
恩地要害
(恩地小屋)
天正末期、益子を逃れた益子但馬守信勝が大関氏を頼り築いたと伝わる。 -
山口館 中臣高房の流された地と伝わる。 -
尻高田要害 天正年間(1573〜92)、伊王野氏が築いたといわれる。 -
館野御前要害 館野氏が築いたと伝わる。 -
須賀川要害
(ゆうげい)
佐竹氏が築いたとも、那須氏が築いたともいわれる。 -
亀山城
(亀城)
(山田城)
那須資隆の八男、堅田(片田)義隆築城と伝わる。
上那須氏終焉につながる抗争の中心地
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金丸氏要害
(館山)
応永年間(1394〜1428)金丸氏が南金丸根小屋館から移り築城。 -
山田館
(御城)
(下山田城)
(大関城)
鎌倉初期、那須資隆の八男、片田義隆築城とつたわる。
明応年間(1492〜1501)大関宗増が八幡館から当地に移り、増次の代に白旗城を修築し移った為廃城。
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城ヶ平 - -

report:minaka  参考資料
作成日:2003/12/30  最終改訂日:2009/10/22